言葉のお守り

大切にしている言葉、詩がある。

一つは、宮澤賢治の詩集 詩ノート 一〇五四
「何と云われても」

<em>何と云われても
わたくしはひかる水玉
つめたい雫
すきとほった雨つぶを
枝いっぱいにみてた
若い山ぐみの木なのである</em>

もう一つは、大江健三郎の小説「雨の木(レインツリー)を聴く女たち」の中で使われた、イギリスの小説家マルカム・ラウリー(1909-1957)の短編「泉への森の道」の一節。

<em>親愛なる神よ、心からお祈りいたします、私が作品を秩序づけることができますよう、お助けください、それが醜く、混沌として、罪深いものであれ、あなたの眼に受け入れられる仕方において。・・・乱れさわぎ、嵐をはらみ、雷鳴に満ちているものであるにはちがいありませんが、それをつうじて心を沸きたたせる「言葉」が響き、人間への希望をつたえるはずです。それはまた、平衡のとれた、重おもしい、優しさと共感とユーモアにみちた作品でなければなりません・・・</em>

ラウリーは、強度のアルコール中毒が原因の事故で亡くなっている。生前の出版は「ウルトラマリン」「火山の下で」の2編のみ。

賢治、ラウリーが抱えていたであろう焦り、苦悩、悲嘆など。
だが、二人の言葉の、切実で、非常にポジティブな力強さに感銘している。
制作にあたっての「お守り」のような言葉だ。